2016年12月27日火曜日

建築 宮大工編

宮大工の凄技について喜真摩に。

宮大工とは、寺社や御神輿など、日本古来の木造建築を手掛ける大工さんのことである。
飛鳥時代から続く伝統的な技法により、寺社を建築・修理する事が主な仕事だ。
宮大工の腕次第で、その後の保存状態が大きく決まるといわれる。
幅広い知識と高度な技術が求められ、国から選定保存技術に指定されている。

かつて宮大工は、釘を使わず「継手」「仕口」という手法で建築・修理をしていた。
なぜなら、地震大国日本だからこその耐震性を備えているからである。
また、建築物を大切にする意味から、礎石を建物の土台として柱を立てる。
そうする事で、柱が湿気を吸い上げるのを防ぐのだ。
また、地震の揺れの反発を抑え、建物の崩壊を防ぐ。
まさに、日本の風土に合った技法である。

         

「継手」は”つぎて”と読み、材木の長さを増すための技法。
「腰掛鎌継ぎ」や「追っ掛け継ぎ」など70くらいの種類がある。
形状を複雑にすることで、木のねじれ防止の役目もある。
 
   
   〔腰掛鎌継ぎ〕

 

   〔台持ち継ぎ〕

「仕口」は”しぐち”と読み、方向の異なる梁や桁などの複数の木材を接合する手法である。
”ほぞ”という突起部分と”ほぞ穴”を作り、かかる力の伝達を的確にする。

  「組手 宮大工」の画像検索結果     

パズルのような継手や仕口に、とにかく心惹かれる。
複数の木が複雑に削られ、計算されたもの同士が寸分の狂いもなくピタリとはまる。
はまってしまえば、釘を使わずとも何百年、何千年と外れることはないのだ。
素晴らしい!!
 イメージ 2   クリックすると新しいウィンドウで開きます

そんな複雑な部分の加工に使うのが鑿(のみ)である。
非常に書き辛い漢字で馴染みがないので、カタカナ表記に変更。
ノミの使い方は非常に難しく、「穴ほり三年」と言われる由縁である。
種類は豊富で、主に使われるのは叩きノミや突きノミである。
叩き鑿9本,3分から1寸6分まで揃ってます。銘,利栄等 8本新品です 突き鑿 4本 | 銘有 中古品 ノミ のみ 鉋鋸鉈彫刻刀金槌
     〔叩き鑿〕               〔突き鑿〕                 〔丸玄能〕
kuromaru_g_higasi
叩きノミの柄の先端に、カツラと呼ばれる金属が付いる。      
ここを玄能(げんのう)で叩いて木の細工をする。
突きノミの柄は長く、両手で握り突きながら切削を行う。        

ノミと並んで重要なのは、鉋(かんな)である。
表面を削る平台鉋、装飾に使う面取り鉋、溝加工用の底取り鉋  などがある。                 
                                                
鉋は、室町時代に中国から日本に伝わった。                  
中国鉋は押して使うため、当時は取っ手が付いていた。
しかし、日本人は表面を平らにするだけでなく、ツヤを出す事まで求めた。
その結果、江戸時代には鉋を引いて使うことに辿り着いた。
 
     鉋 <木、オーストリア>
      〔中国に伝わる押す鉋〕                  〔西洋に伝わる押す鉋〕

鉋で木を薄く削る技は、まさに神業である。
「削リスト」と呼ばれる職人たちが、ミクロンの薄さに削るのだ。


その鉋、「全国削ろう会」という削り技を競う大会がある。
会場は毎年変わる。
今年(2016年)は、5月14、15日の二日間、飛騨・高山で行われた。

「薄削り」では、3ミクロン前後を競い合う。
この薄さは、向こう側が透けて見える。
しいていうなら、上等のおぼろ昆布だ!                 

2017年第33回の全国削ろう会大会は、9月30日、10月1日の二日間、宮城県蔵王町で開催。
毎年会場は変わり、全国を回っている。
近くで開催の際は、ぜひ行ってみたいものだ。


職人の世界おいて、道具は命である。
にもかかわらず、こんなミステリー秘話が。

明治12年(1879年)、奈良県・東大寺南大門の修理の際、梁の上で墨壺が見つかった。
大工の忘れ物?と思われたが、材木加工の段階で使う道具が梁の上にあるのは不自然である。
命同様に大切である大工道具だからこそ、わざわざ置いたのではないか、と考えられはじめた。
おそらく棟梁は、一世一代のこの仕事を最後と決め、自分の代わりに門を守ってほしいと願って置いていったのであろう、と今では語り継がれている。


                     〔これが南大門〔忘れ物の墨壺〕 

また、職人のプライドや厳しさが伝わる秘話も。

京都にある千本釈迦堂(大報恩寺)本堂を造営しようとした際、大工の棟梁であった高次が代わりのない名材4本の柱のうち1本の寸法を切り誤ってしまった。
困っている高次に妻のおかめさんが、残り3本も切り枡組をしたらどうかとアドバイスをした。
この発想のおかげで、無事本堂の骨組みは完成した。
しかし、おかめさんは「女の知恵を借りて完成させたと云われては主人の恥」と考え、上棟式を待たずに自害してしまった。
高次は、妻の冥福を祈り”おかめ塚”を建てた。

IMG_3680.JPG

どの時代においても、建築に関わる人々は命がけのようだ。

寺社を訪れる際は、職人の素晴らしい建築技術や、「継手」「仕口」の凄技を見ることも、楽しみ方の一つである。






2016年12月24日土曜日

建築 東寺五重塔 広島弁編

真言宗総本山 教王護国寺 東寺の五重塔についてじゃけど。
京都の丘の戸口がちこーなると、たちまち目に留まるんは東寺の五重塔じゃ!
京都に来たんじゃ~と、えっと感じる眺めじゃ。

丈がおおかた55㎝、木の建てもんじゃ日本一の丈で、国宝になっとる。
826年、弘法さんがこしらえはじめ、弘法さんがあっちへ参って50年たって出来上がったんじゃ。
じゃけど、どんどろなんかで4度も燃えてしもーて、今んは5代目じゃ。
1644年、徳川家光がこしらえたもんじゃ。
どんどろにはえろー懲りたんか、塔のてっぺんにどんどろ避けをつけて、アース線を地(ぢ)についで、どんどろ対策をえっとしとる。


落雷時の避雷針とアース線の働き「東寺 五重塔 避...」の画像検索結果
            

五重塔言うんは、仏陀の遺骨んをしまうとこじゃ。
弘法さんが唐から仏舎利を持ち帰りんさった。
仏舎利言うたら仏陀の遺骨んで、サンスクリット語じゃストゥーパじゃ。
卒塔婆いう漢語に訳しよって、見た目は楼閣と合わそーた後、五重塔言うて日本に来たようじゃ。

教えたいんは、初層の中じゃけん。
ぶちきれいな密教空間じゃ!
そりゃ~色褪せるとるけど、きれいじゃったそん頃の名残はあるけん。

上まで通っとる芯柱を大日如来にしんさって、ねきを四尊の如来を据える。
大日如来を入れたぁ五体を「五智如来」言うて、仏さんの持っとる五つの智恵を言うとる。
宇宙のあっちゃこっちゃを守ってくれとる。
そのねきを八尊の菩薩さんが囲っとる。
あっちゃこっちゃの柱んに金剛界曼荼羅をえがーて、ほとりんの柱に八大龍王、壁んに真言八相像。
真言の教えんが弘法さんに伝わったいわれがかかれとる。


「東寺 五重塔 内...」の画像検索結果   「東寺 五重塔 初...」の画像検索結果

仏さんはヒノキでできとる。
金で漆箔しとり、玉眼がつこうてあって、ぶち豪華なんじゃけん。

特別に見してくれるゆーときんは、初層の床下んをちいと見ることが出来るんよ。
芯柱の床下んのとこんにも、色を使うとるんが分かるけん。
建ってから48年のちの1692年にゃー、塔の丈の干あがりでこまーなって、芯柱が屋根をぬきんでてしもうた。
じゃけん、おおかた50㎝ぐらー下んとこを切っちょる跡なんじゃ。
おおかた50㎝ぐらーきれーなとこが下がったゆーことじゃ。
まぁ、一回は見に行ってみんさい!



こんな感じです!
広島県民以外は分からないかな(笑)
標準語バージョンと読み比べてみてください。
日本は狭し!言葉でも楽しめたら幸いです(*^_^*)

方言に興味ある方は、他の方言にも置き換えて下さい!大歓迎です!
その時は拝見したいので、URLをお知らせください!!


2016年12月18日日曜日

建築 東寺五重塔編

真言宗総本山 教王護国寺 東寺の五重塔について。
京都の陸の玄関が近づくと、まず目に入るのは東寺の五重塔だ。
京都に来たんだなぁ~と、しみじみ感じさせる景色である。

高さ約55m、木造建築物としては日本一の高さで、国宝に指定されている。
826年、弘法大師空海により着手され、空海没50年後に完成。
しかし、落雷などにより4回焼失し、現在の五重塔は5代目。
1644年、徳川家光により再建されたものだ。
雷には相当懲りたのか、現在は塔の先端に避雷針があり、アース線を地上に繋ぎ、落雷対策がばっちり施してある。


「東寺 避雷針」の画像検索結果         「東寺 避雷針」の画像検索結果

  五重塔は仏陀の遺骨を安置する意味がある。
  空海が唐から仏舎利を持ち帰った。
  仏舎利とは仏陀の遺骨で、サンスクリット語ではストゥーパ。
  卒塔婆と漢訳され、形は楼閣と融合された後、五重塔として日本に       
  伝わったようだ
 
紹介したいのは初層内部。
極彩色で彩られた密教空間。
さすがに色褪せてはいるが、美しかったであろう当時の名残はある。

各層を貫く芯柱を大日如来とし、その周りを四尊の如来を配置。
大日如来を含めた五体を「五智如来」といい、仏の備えている五つの智恵をあらわす。
宇宙の四方天地を守護している。
その周りを八尊の菩薩が囲む。
四方の柱には金剛界曼荼羅を描き、側柱には八大龍王、壁は真言八相像。
真言の教えが空海に伝えられた歴史が描かれている。

「東寺 五重塔」の画像検索結果     「東寺 五重塔」の画像検索結果

仏像はヒノキ製。
金で漆箔され、玉眼が使用してあり、かなり豪華である。

特別公開時には、初層床下の一部も見ることが出来る。
芯柱の床下部分にも、彩色が施されているのが分かる。
建築後48年の1692年、塔身の乾燥による収縮で、芯柱が屋根を突き上げてしまった。
そのため約50㎝程最下部が切り下げられた後なのだ。
約50㎝程彩色部分が下がったわけである。


さてさて、東寺があるなら西寺は?と疑問がわく。
どうやら平安京の造営と共に、羅城門を挟んで東寺と西寺があったようだ。

saiji 04西寺にも五重塔があり、二つの五重塔が平安京の門柱のようであったらしい。

規模は同等で、嵯峨天皇は東寺を空海に、西寺を守敏(しゅびん)に委ねた。
どちらも真言宗であり、二人はライバル意識が強く、事あるごとに対立した。
ある年、干ばつで困っていた朝廷が二人に雨乞い対決をさせた。
  
守敏は西寺の金堂に三日三晩籠り、寝ずの祈祷を続けたが、雨は一粒も降らない。
空海が神泉苑の竜神の池で祈祷を始めると、空は厚い雲に覆われ激しい雨が降り始めた。
この結果、守敏の信頼は失墜。

西寺はその後、990年の落雷による火災で焼失。
再建はされたが、次第に荒廃し、1233年には五重塔も焼け廃絶した。
現在は、1959年の発掘調査で判明した唐橋児童公園と唐橋小学校辺りの礎石が三個のみ。
雨乞い対決ではなく、仏教界の対決が招いた結果である。
 
saiji 06
 


  余談だが、東寺の五重塔のてっぺんと同じ標高の京都の通り        
  はどこかご存じだろうか?
  東寺の地点は標高22.9m。塔の高さ54.8m。合わせて77.7m。
  北山大橋は標高77m。堀川北山通りは標高78.1m。この辺り
  がほぼ同じになる。

  この間約8㎞が約55mの標高差であり、平坦だと思っていた
  盆地も結構な急斜である。
  北山辺りから東寺方面へサイクリングすると、行きは良い良
  い帰りは恐い!!なのだ。
  



  



2016年12月15日木曜日

絵 俵屋宗達編

俵屋宗達の奇抜な絵に出会ったのは、京都の「養源院」である。
血天井が見たくて訪れたのだが、「白象図杉戸絵」に釘付けになった。

「俵屋宗達 白像」の画像検索結果
  「俵屋宗達 白像」の画像検索結果 
 
たわらや‐そうたつ〔たはらや‐〕【俵屋宗達】
桃山から江戸初期にかけての画家。俵屋は家号。伊年・対青軒の印を用いた。宗達光琳(こうりん)派、いわゆる琳派の祖。京都の上層町衆の出身とみられ、本阿弥光悦書の和歌巻の金銀泥下絵を描き、また扇面画や色紙絵などに大和絵の伝統を新解釈した斬新(ざんしん)な装飾的画法を示し、水墨画にも新風を吹き込んだ。「風神雷神図」など屏風(びょうぶ)の大作も多い。生没年未詳。

俵屋宗達は象を見たことがなく、想像で描いたそうだ。
実物より柔軟性のある、愛嬌たっぷりの象で、とても親しみがもてる。
宗達の絵は個性的で、 躍動感に富み、はっきりとしている。
好みは分かれるかもしれないが、印象に残りやすい作品が多い。

なぜ養源院に白象の絵なのか。
それは、養源院の血天井に関係している。

関ヶ原の戦い直前、鳥居元忠は徳川に伏見城の留守居を任された。
その伏見城へ、石田三成率いる4万の軍勢が攻撃を仕掛けて来た。
10日昼夜戦い、8月1日力尽きた元忠ら380名は切腹。
亡骸は関ヶ原の戦いの処理が終わる2ヶ月後まで放置された。
その間に染み付いた血痕や体の後が、養源院の血天井である。
「養源院 血天井」の画像検索結果「養源院 血天井」の画像検索結果
 
 
 元忠の忠義を忘れず、足で踏むことのない天井板にして供養している。
白象は、釈迦の脇侍である普賢菩薩文殊菩薩の乗り物である。
俵屋宗達は、元忠達の霊を慰め、極楽に運び導く願いを込めたようだ。

この時代の絵として、象は非常に珍しい。
まして白象となるとなおの事である。
血天井と白象、お寺の方の解説を聞きながらじっくり見て欲しい。 
 
追伸
    養源院では靴を脱ぎ、正座してお話を聞きます。
    靴下に穴が開いていないかチェックして訪ねて下さい。
  大恥をかきました・・・
                                             
 
 

 


2016年12月11日日曜日

絵 絵馬編

「絵馬」の画像検索結果

最近、絵馬のプライバシー問題が話題に。
保護シールを貼るべきだ!とか、貼れば御利益が減るのでは?とか。
そもそも絵馬ってどんな由来なんだろうか。

今回は絵馬について喜真摩に(*^_^*)

「絵馬 保護シー...」の画像検索結果
絵馬の由来は?

奈良時代、神の乗り物として神馬を奉納したのが始まり。
しかし、馬は高価で奉納された方もお世話が大変。

次第に馬型土器、木彫りへと変わっていく。
そして、平安時代には今の形になったようだ。
奉納だった馬も、絵馬となれば江戸時代の頃から祈願用に。

祈願内容も時代と共に変わっていく。
「厄除け」 「合格」 「恋愛」 「宝くじ」 「健康」など。
かなり切実なものは「縁切り」や「髪の悩み」など。
願いを叶える方も、多種多様で大変である。

こんな切実な祈願となると、人に知られたくない気持ちも重々分かる。

きっかけは、寺社に修学旅行で訪れた学生の行動だったらしい。
先に絵馬を掛けた学生のを、後に訪れた学生が写真に収めSNSにUPした。
知り合いだからこそ、覗き見したくなったのであろう。
しかし、神仏の聖なる領域で祈願する際、覗き見して冷かして罰が当たるとは思わないのか?!

現代人のストレスも大変だが、プライバシーを尊重しながら、願い事を叶えていく方も大変である。
どうか神様仏様、名前確認をした後は、保護シールを貼り戻すのもお忘れなく。

日本各地には変わった絵馬がある。
鏡絵馬、下駄絵馬、おっぱい絵馬、杓子絵馬など。
本来の馬の奉納とは、かなり掛け離れている。
しかし、願いの目的が分かり易くて神様仏様には有難いのかもしれない。

〔伏見稲荷神社 変わり絵馬〕

 
写真を撮るときは、こんな風に裏側を!
そうすれば、こんなイケメンが微笑んでますから(*^_^*)

2016年12月7日水曜日

衣装 死装束編

ふと、死装束ってどんなもの?と疑問がわいたので調べてみた。
どうやら、納棺前に故人に着せる衣装や切腹する際の衣装のようである。
故人が、この世からあの世へ旅立つ為のもので、他にも揃える品が幾つかある。
経帷子、手甲、脚絆など。
驚いたことに、最近では死装束をエンディングドレスとも言うらしい。
随分洋風な扱いである。

そしてこの死装束、着せ方を間違ったら大変なのだ。
生前なら右前着付けだが、故人に対しては左前になる。
もし、着物を着ることがあれば、間違っても左前で着てはならない。
周りに不吉がられます…

最近では、死装束に変わり故人が生前来ていた衣装を着せる事も多いらしい。
あの世への衣装として気になれば、足元へ添えたり掛けたり。
ちなみに、浄土真宗では死出の旅を説かないため、死装束を着せる習慣はない。

死装束の価格を調べたら、Amazonでは¥3500で、サイズ感:ちょうどいい!の記載。
お手頃価格だが、ちょうどいい!って誰の感想⁈
利用方法には、勿論死装束として、滝行衣、コスプレなど。
それなら、感想を聞けます、安心しました。
しかし、ネット販売をしてるとは驚きだが、色々参考にはなった。

そして、最後に忘れてはならないのが''六文銭''!
値上がりもせず、消費税もつかず、本当に有難い限りです!

「死装束」の画像検索結果「死装束」の画像検索結果

2016年12月6日火曜日

衣装 制服編

とある幼稚園では、園児獲得の為にかなり凝った小洒落た制服になった。
小さい子が居ない自分には、何と可愛らしい!という思いしかなかった。
しかし、その親御さんから話を聞く機会があり驚いた!

子供一人では脱ぎ着が出来ず、体操服に着替えられない。
その為、制服登園日は月刊予定表を見て指定日のみ着せると言うのだ。
子供にとっては一苦労のトイレも大変らしく、失敗した際のお着替えは常時カバンに入れている有様…

これは園児獲得=お金の図式が成り立つ、人間の煩悩で作られた物だ。
子供の活動や利便さなどそっちのけ。
トイレさえ失敗さてしまう羞恥の代物である。

見た目など表向き重視で、内容の全くない美しい物。
騙されない、本物を見抜く目こそ大切だ。
これは、制服に限らず世の全てにおいて!

2016年12月4日日曜日

衣装 安芸門徒編

安芸国のある地域、葬式衣装が少し変わっている。
変わっていると言っても、見た目はさほどわからないが、正座をすると分かる。
参列者は全員足袋を履いていないのだ。
夏だろうが、冬だろうが履かないのだ。 

     


理由は多々あるようだ。
足袋を履くのを忘れるほど悲しんでる、死がたびたひ起こらないようになど。
少々、語呂合わせのような気もするが・・
素足でぞうり、素足で靴。
やはり異様な光景であり、嫌でも目に止まる。
ちなみに、これほ浄土真宗の安芸門徒の葬儀でのことである。

      

足袋と言えば、故人に履いていただく足袋には約束事がある。
この世とあの世は全く逆であるという観点から、足袋を左右逆に履いていただくのだ。
また、故人の掛布団も襟元と足元を逆さまに。
湯灌のぬるま湯は、湯に水を加えぬるめるのではなく、水に湯を加える。

かつては、夜間に葬儀を行っていたようだが、あの世が昼で歩みやすいという理由からのようだ。

葬儀は多くのしきたりや風習があり、どれも理由を聞くと納得させられる。
人は、どの地で最期を迎え送られるのか分からない。
やはり、生まれ育った地域の風習に近い送られ方の方が、心穏やかに旅立てそうだ。

2016年12月3日土曜日

衣装 白黒編

葬式衣装として喪服がある。上から下まで真っ黒づくめのあの喪服だ。
本来「死」とは浄土からのお迎えであり、おめでたいはずである。
しかし、黒星や白星のように黒には負の意味がある。
葬式は果たして「負」なのだろうか?


調べてみると、明治以前は東洋文化圏である日本は白喪服だったようだ。
現在でもベトナム、韓国、朝鮮、中国では白である。

    

しかし日本は、明治以降自国文化を捨て、西洋かぶれがすすむ。
その際、アメリカの強い影響により黒喪服になったようだ。


冷静に考えてみると、西洋はキリスト教圏ではないのか?
これは、真似てはいけない文化なのではないのか?


今では少し想像し難い白喪服を調べてみる。
日本書紀」や「隋書倭国伝」には既に白喪服が書き記されいる。
服がさほど無い時代にもかかわらず、着分けていたことには驚く。

  

しかも、白は特に管理が大変だったろうに・・・             
ちなみに、江戸時代には僅かの間、水色が登場したようだ。
これまたビックリだ!



では何故白なのか?
「死は伝染する」という考えから、白には清める効果があるとされいた。
清めの塩も、白いからこそ意味がある。
葬式衣装の色一つとっても、死に対する歴史があってかなり面白い。

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2016年11月29日火曜日

仏教の儀式 安芸門徒編

お盆のお墓は、宗派によって様々。
卒塔婆を供える、何も供えない、そして我が故郷の虹色六角錘の派手な灯籠
これは安芸門徒の儀式。
お盆のお墓は七色で、とても賑やか!
初盆は、真っ白な灯籠で一目で分かります。

この灯籠、嵩張る上に貼った七色の紙は破けやすく、持ち運びは非常に困難…
おまけに、雨が降れば色が落ち、墓石が染まる。
いい事なしの盆灯籠だけど、お年寄りが内職で作る灯籠を軒先きで売る季節になると、何だが心穏やかにお盆を迎えられる。

派手な墓地もお盆が終われば元の静けさ。
それどころか、盆灯籠の片付けに追われ、灯籠の竹軸は畑で野菜達を支える道具へと変わる。

この仏教の儀式も最近では、手軽に済ませられる塔婆へ。
信仰心を疑う理由で変わりつつある。
そんな地域性のあるお盆儀式。
残していくのも大切な気がする。


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2016年11月27日日曜日

仏教の儀式 銅鑼編

「東寺 どら焼き」の画像検索結果

仏教の儀式(法要)で銅鑼や鉢を使います。
この銅鑼についての少し和むお話。

江戸時代末期頃、寺でも手軽に副食が作れないものかとお坊さんが和菓子屋に尋ねた。

仏具の銅鑼の上で薄皮を焼き、餡を中心にして焼いたクレープ生地を何重にも巻きつける方法を教わったそうだ。
最後は竹皮に包み切り分けて食べる。

手も汚れず、モチモチと美味しいそうだ。
ちなみに名をどら焼きと言う。

仏教の儀式で使う銅鑼が、まさかまさかの和菓子製造機に!
嘘か誠か、21日の弘法さんで手に入る限定品のようです(*^^*)

2016年11月25日金曜日

仏教の儀式 彷徨い編

魂はさ迷い家に帰りたい願望を持つ。
安心して旅立てるように儀式(儀礼)を行うのだ。


神道では「みたま鎮め」、仏教では「初七日の供養」にあたる。


こう聞くと、どの魂もさ迷うことが分かっているなら、生前に教える、もしくは道しるべを作る、分かり易くするなどの対策はないものかと、ふと思う。


古式儀式にとらわれ過ぎて、少々時代に乗ってない感が良いのかもしれないが、なかなか理解し辛い世界で面白くもある。


目に見えない魂をあるものとして、お迎えしたり送り返したりの盂蘭盆会。六道の輪廻転生。


儀式を知れば知るほど、なぜ魂は自立出来ないのかと、教育したくなる。
せめて、自分の魂くらい自分で道を選びたい。
地上の人々の儀式で行く道を決められたくないものだ!



2016年11月4日金曜日

最初の投稿

このブログは、授業の課題としてはじめましたが、気まま(喜真摩)につぶやきます。