その答えを探りながら。
今回は高松塚古墳について喜真摩に(*^_^*)
高松塚古墳が築造されたのは、7世紀末から8世紀初頭とされ、終末期古墳とされている。
仏教が伝来したのは、552年又は538年とされ、どちらにしても6世紀中頃ことである。
この古墳が築造された時代は、日本古来の八百万の神々と仏教が混在した時代となる。
仏教伝来により古墳は次第に作られなくなるため、古墳時代最後の貴重な古墳である。
この古墳が語り始めるのは、1962年のことである。
明日香村の村民が、ショウガを貯蔵しようと現墳丘の南側に穴を掘った。
すると、穴奥で凝灰岩の石室が突如現れ、これが発端となる。
〔凝灰岩とは〕
火山灰が堆積して固まった岩石で、もともとは数ミリ以下の細かい火山灰が固まったものなので、石質は軟らかい部類です。また割れ方に方向性はなく、軟らかいため加工がしやすい石材です。どちらかといえば他の主要な建築石材に比べて風化しやすいため、微細な細工を施したりするモニュメント等にはあまり向きません。ただ種類、産地によっては中硬度のものもありますが、ほとんどが軟石に分類されます。耐火性が強い石材のため、塀や蔵などの用途でも採用されてきました。代表的なものとしては、栃木県宇都宮原産の大谷石があります。比重は花崗岩に比べて低く、吸水率も高めとなっていますが、加工のしやすさと耐火性を特徴とする建築石材です。
しかし、発掘調査が始まるのはその10年後の1972年からである。
調査開始間もなく、あの有名な極彩色の壁画が発見された。
発見当時は、現在のような退色やカビは見られず、それはそれは大変美しかったそうだ。
石室南面に盗掘孔があったことから、既に盗掘されていることが分かった。
盗賊どもが置き去りにした灯明皿が出土したことで、盗掘は鎌倉時代であったことも分かった。
北壁に玄武、東壁に青龍、西壁に百虎が描かれている。
盗掘孔だった南壁の壁画は失われたが、朱雀だったと考えられる。
この四神、古代より中国や日本に住む人々の世界観である。
その世界観はその後も受け継がれてる。
例えば、会津藩の軍構成である。
武家男子の50歳以上を玄武隊、36歳から49歳までを青龍隊。
18歳から35歳までを朱雀隊、17歳以下を白虎隊としたことだ。
また、ベテランを玄人、若者を青二才と言うのもこれにあたる。
さてさて、話を高松塚古墳に戻そう。
凝灰岩で出来た石室は、長さ2.65m幅1.03m高さ1.13mである。
床石4石、北に奥石、東西の側石にそれぞれ3石ずつ。
天井は4石で、南は閉塞石である。
一枚当たり推定1.5~2t。
これはかなり狭い!
棺が納められると一杯になる。
これだけ壁が近いと、被葬者にとって壁画はかなり圧迫的だったに違いない。
その狭い石室にも、ちょっとした夢がある。
なんと!!天井に星座が描かれているのだ!!
北斗七星など、数えられるもので125もある。
星は直径約9㎜の金箔で表現され、星間を赤線で繋ぎ、星座を表している。
この狭い石室で壁画を描いたり、天井に金箔を貼ったりは大変な作業だったに違いない。
しかし、1300年たった今でも、この金色の星は輝き続けている。
石室の壁画や星に思いを込めた繊細世界は、冷たい石でさえ温かく感じるほど心がこもっている。
1300年も被葬者を守り続けていたこの古墳も、やはり国宝級の建築だと私は思う。
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